今年の5月の連休は天皇の退位と即位の行事があり、例年より長く、特別な雰囲気で過ぎてゆきました。この直後には憲法記念日があり、国民主権と象徴天皇制の在り方を考えるにはちょうど良い時期でもありましたが、残念ながら平成から令和への移行がもたらした特別な雰囲気、あたかも新年を迎えるかのような熱狂、お祝いムードが世の中を包んで過ぎていった感じでした。
こうした代替わりや改元の熱狂に便乗して、テレビ局を政府が我が物顔に利用するような状況が生まれました。そうしたプロパガンダで、安倍首相はこれまでの政治のマイナス面を帳消しにして、まるで新しい時代が到来するかのように宣伝していましたが、国民生活や日本経済、沖縄の新基地建設問題、国政私物化問題が何も良くなるわけでもなく、その内に「新しい時代には新しい憲法を!」などと言い出さないように注意しないといけません。
一方で、こうした世の中の風潮に違和感を唱える意見も少なからず見られました。私が注目した第1の意見は、憲法との関係での主権在民、国民の総意に基づく象徴天皇制を国民的に深めることなくマスコミ報道が過熱したことと、それを看過しかねない国民の側の自覚と責任の希薄さを指摘するものでした。第2の意見は、恐らくは、いろいろ複雑な葛藤を抱えながらも、平成の天皇は今なお戦争と向き合い、強い意思で平和と和解のために動いてきたことで国民の多くから敬意と好感を抱かれた。しかし、その結果、天皇個人の存在感が高まり、主権者の意思で象徴天皇の在り方を決められるという原則を忘れたり、政治の世界では歴史認識をあいまいにし、過去の戦争に対する贖罪を天皇に委ね、安心して過去を忘れたかのように未来志向だけを強調する風潮が広がっていないか、というものでした。いずれも、国民主権をどう機能させるかという問題は、国民の側に一定の緊張感、責任と自覚を伴わざる得ない問題なのだと思います。その点では、私たちはボーっと生きるわけにはいきません。
5月の連休にはこどもの日もありました。国連の子どもの権利委員会は日本政府に対して「社会の競争的な性格により、こども時代と発達が害されることの無いように」必要な措置をとるよう勧告しているそうです。競争で強いられる学びの対極にあるのが30年以上前にユネスコが採択した学習権宣言ですが、そこには「学習は人々を成り行き任せの客体から自分の歴史を作る主体に変えてゆくものである」と述べられているそうです。子供だけでなく、今の日本人全体にあてはまる宣言と思います。豊かな学びを致しましょう。